「ヒラケゴマ」
 彼女の口からするりと言葉が紡がれた。俺が片眉を顰め見やると、彼女は益々口角を吊り上げた。




 Open sesame





君」

 死神武器職人専門学校。通称死武専。此処に講師として戻ってきてから、幾月かが過ぎた。 が死武専を卒業したのは其れよりも随分と前の事だったが、死武専は以前と寸分違わぬ姿で存在していた。 死神を軸とした教育方針、生徒達の溢れる笑顔。それはも見知っているものだった。 聞いた所によると、其れは何世紀も変わってはいないのだとか。

 ――しかし一つだけ、以前と異なるものがあった。

 呼び掛けに応じて振り向くと、其処にはいつもの白衣を身に纏った男が居た。
「シュタイン博士」
 が言うと、シュタインはヘラっと笑った。
 教員として死武専に勤めている彼は、普段通り煙草を燻らせていた。 室内で煙草を吸っているのもどうかと思ったが、自分が彼に言った所で何も変わりはしないだろうし、 生徒の前でないだけマシかと思い、は何も言わなかった。
「僕に何か御用ですか?」
 が聞くと、シュタインは煙を吐き出した。慣れた動作だ。
「いえね、メデューサ先生がお呼びですよ」





 何の因果なのか――講師である自分を単なる使いっ走りとして使っているからなのか、 もしくは年齢が近いだろうからという理由からなのか、それとも彼女を死武専に校医として薦めたのが自分だからなのか、 は医務室に訪れる機会が多々あった。学生時代、極力怪我をせぬよう務めていたにとって 全く縁の無い場所であった筈なのだが、卒業した後であり講師である今の方がよく訪れているというのは奇妙な事だった。
 医務室の部屋の扉を、二度ノックする。
 最初の頃はその事にすら緊張したものだが、今では返事が無くとも入っても良いと、許可さえ出ている。 この日は当然のように、返事が有ったが。聞き慣れた女性の声を確認してから、は中に入った。
 医務室に入ると、特有の匂いがつんと鼻を突いた。消毒液か、それとも軟膏か。 判断は付かなかったが、嫌な匂いという訳ではなかった。

 ――死武専の校医。彼女は魔女だった。

「あら、先生、早かったんですね」
 メデューサが此方に気付き、微笑みを携えてそう言った。 彼女の前には生徒が一人座っていて、その生徒はどうやら今の今まで問診を受けていたようだ。 服装を正しながら、少しだけ此方を向いた男子生徒の顔には見覚えがあった。
「すいません先生。突然お呼びして。申し訳ないのですけれど、もう少しだけ待っていて下さるかしら」
 なおも微笑みながら、メデューサが言った。が良いですよ、と了承の返事を返すと、彼女は再びにっこりと微笑んだ。


「異常なしよ、ソウル君。けれどもし何か有れば、またすぐに、私の所へ来てちょうだいね。何かあった後では遅いのだから」
 はい、とその生徒は頷いた。自分の記憶が正しければ、彼の名前はソウル=イーター。 帰り際、すれ違いざまに小さく頭を下げたソウル=イーターに、は何故彼が此処へ来ていたのか考えた。 ソウル=イーターという名前に、何故か聞き覚えが有った。
 彼が医務室の扉を閉め、コツコツという音が聞こえなくなった頃、メデューサが口を開いた。
「さっさと座ったらどうなの?」
 先程の、ソウルを相手にしていた時と、声音が全く違う事には気付いていた。 冷たい声。これが本来の、彼女の声だった。
 は言われた通り従順に、椅子に座った。それは先程までソウル=イーターが座っていた椅子であり、 メデューサの面前の椅子でもあった。古い丸椅子はぎしりと軋んだ。 腰を落ち着けた、そんな此方の様子には目も寄越さず、メデューサは何やら書類に書き込んでいた。 が彼女が書いているのを見詰め続けている事に気が付いたのか、メデューサが言った。 今度も声音が違った。――至極愉快そうな声だ。
「なあに? 気になるの?」
 ふふ、とメデューサは笑った。
 その笑みは普段彼女が死武専の校医として貼り付けている薄っぺらな笑みと違い、 口角を上げ、目を細めて笑う、彼女の本来の笑みだった。 彼女がそんな顔を見せるのはの前でだけだ。
「黒血よ。全て順調。それこそ笑ってしまう、ぐらいにね」彼女は再び笑った。
 彼女が黒血と口に出してから、自分は何故ソウル=イーターという名に聞き覚えが有ったのかを思い出した。 以前メデューサが愉快そうに、に話して聞かせたからだ。他に相手が居ないからか、彼女の舌はその時も饒舌だった。 魔女だろうと関わらず、女の話は長いものだという事をその時に思い知った覚えもある。
 くつくつと笑い続けるメデューサを見ながら、は口を開いた。
「俺に、何か用があると聞いたんだが?」
 優しい校医の仮面を剥ぎ取ったメデューサ同様、自身も死武専に来た新任講師の面を脱いだ。 礼儀を弁えている若い講師、それが死武専でのが、死武専に何の忠誠も無い事を知っているのは、彼女が魔女だと知っているのが自分だけだという事と同じように メデューサだけだ。しかし、メデューサに忠誠を誓っているわけでも無い事も、彼女は知っている。 の慇懃無礼な態度もメデューサは気にせず、書き終えたらしい書類を纏め、彼女は其れを自分のデスクに仕舞った。
 シュタイン博士が言った事によると、何やら用事があるので医務室の方まで出向いて欲しいとの事だった。 が、どうやらそうという訳ではないらしい。――それは、いつもの事だった。
「そんな風に言ったかしらね」メデューサはまた笑った。



 メデューサは何か用事があり、を医務室に呼び寄せた訳ではなかった。ただ、愚痴を言うのだ。 生徒達が五月蠅いだのといった小さな事から、鬼神云々の大きな事まで様々な事を、延々とに話すのだ。 これは何も今回が初めての事ではなく、以前から度々ある事だった。
 武器と職人のように確かな信頼関係が有るわけでもないのに、彼女はをスパイとして使用し続けていた。 そして、時々こうして愚痴を零す。此方からの密偵情報を訊いてくる事も有ったが、それ以上に彼女は愚痴を話したがった。
 ――いっその事、死神様に見つかってしまえ。
 愚痴り続けるメデューサを余所に、は半ば本気でそう思った。
 自分の部下が心内でどう思っていようと知らん顔で、彼女は自身が死武専に入り込んだ後もをスパイとして使い続けた。 実際はそのままどうなろうと構わなかったし、死武専に対する執着も無かったので スパイである事は別段どうとも思わなかったのだが、 今日のように仕事が溜まりに溜まった後に呼び寄せられ、単に愚痴を聞かされるだけだと、うんざりするのは事実だった。 いっその事彼女の魂、魔女の魂を奪ってやろうかとも考えた事があったが、 単身の武器が一流の魔女に勝てる筈もない事は解っていたので、その計画は実行されずにいた。
 驚くことに、メデューサが魔女であり、が彼女のスパイだという事はばれずに済んでいた。 彼女のソウルプロテクトは完璧だったし、自分は単に死武専の卒業生であり講師としてやってきた。 前に一度、このまま二人で行動し続けていればボロが出るのではないかとメデューサに言った事があったが、 彼女は二人で居るのを見られたとしても、仲が良いようにしか見えないだろうと笑った。――彼女との奇妙な関係は続いている。


「聞いているの?」メデューサが此方を振り返った。
 いつ彼女は立ち上がっていたのか。はそれすら判断が付かなかった事に驚きつつも、「ああ」と返事を返した。 その取って付けたような返事に納得がいかなかったのか、メデューサは少しだけ眉を上げ、スタスタと此方に歩き出した。
 ピタリ、と、彼女の手がの頬に添えられた。
 彼女の手は思ったよりも冷たくかった。――まるで蛇のようだ。
「どうせ、私が捕まれば良い、そういう風に思っていたんでしょう?」
 似たような事を考えていた手前、の頬に添えていた手を彼女は動かした。

Open sesameヒ  ラ  ケ  ゴ  マ
 メデューサが不意に口に出した。言葉の意味を理解できずにいると、彼女は微笑んだ。
「何かの呪文らしいわ。意味は忘れたけど。――別に貴方がどう思っていようと構いやしないわ。貴方が私の下に居続けるのならね。 気付いていた? 私が、何故貴方を側に置いているのか」
 メデューサが魔法を使ったわけではない事は解っていた。 というよりも、この場で魔法を使えば即魔女だとばれてしまうのだから、狡猾な彼女が使う筈がない。 メデューサが一体何を考えているのかは解らなかったがは何故か急に、 彼女が教師としては生徒達にとても人気なのだという事を思い出した。特に、男子生徒を中心に。
 弧を描いている彼女の唇がとても柔らかそうだった事に気が付かないわけにはいかなかったし、 其れがだんだんと自分の方に近付いてきていたのも、は気が付いていた。

 ――彼女との奇妙な関係は今も続いている。





[author: 玄田]